インタビュアーの罪

録音した「日曜日の秘密基地」聴く。ゲストは安西肇。「インタビュアーはじぶんが思っていることを(インタビューイに)言わせようとする」と、安西さん。わたしがまんがや小説、アニメの批評を読んでいていつもモヤモヤ思っている点がこれ。明快な言葉にできる安西さんはヤハリ天才です。
クリエイターがサービス精神からorめんどうくささから、その場の勢いで言ったコト、インタビュアーが誘導して言わせたコトなどを、まるで作品の理解に不可欠であるかのように思うひとがいるのが信じられません。批評家のすべてとは言いませんけれど。
作品はいちど受け手に渡されたらもう受け手のものだけれど、クリエイターの、ひとの考えは日々変わっていくわけだから、あるときある場所での発言を言質に取るような論評はスタートの時点からあやまりを内包しているのでは? なんていつも思います。
作品と作者と、少なくとも作品と作者の発言とは切り離して考えなければいけません。クリエイターは基本的にウソツキです、批評家諸兄。高い批評能力を持つ作家自身による自作の解題は大いに意義がある、とわたしも思いますが。とにかくひとつだけ確かなことは、嘘をつくことに罪悪感を抱かないひと、嘘をついている自覚を持たないひとだけがフィクション作品のクリエイターになるんです。
上記のようなうっかりさんな批評家や考えの浅いオピニオン・リーダー(死語ですか)の文章や発言が、その批評の対象となった作品に関する定説になることがあったとしたら、とても不幸なことと思います。
クリエイターは、特にプロ批評家の批評にさらされるほどのクリエイターは、どんな分野でもそれなりに厳しい競争を勝ち抜いた上で作品を発表しているわけですが、ひるがえってプロ批評家はどうか。たとえば、とある週刊まんが雑誌の月例新人賞には、平均して80本/月の投稿作品が送られてくると聞きましたが、果たしてプロ批評家の世界にははそうしたハードル、競争があるのか。まんがや小説に関してまとはずれな批評が、ネット上はしかたがないにしても、商業誌に堂々と掲載されるのはなぜか。
話がずれました。すみません。わたしは不勉強で批評の世界の厳しさは存じませんので、このへんで。
↑フト思い出すことがあり、田口仙年堂吉永さん家のガーゴイル」(イラスト・日向悠二 ファミ通文庫)を引っ張り出してカバー見返しの著者コメントを読む。
「(前略)現在こうして小説を書いているのにもかかわらず嘘をつくのが苦手。(後略)」
……まあ、こういうコトもあるよね!(^^;